
イタリア。
と聞いて、皆さんは何を連想するだろうか。サッカー、料理、オペラ、美術、デザイン。この国が生み出した芸術は図り知れない。
もともと日本では、美術の教師をしていた内村伸之さんと、ピアノの先生をしていた奥さんのまり子さん。97年に結婚し、まり子さんがイタリア行きを決意したのは、29歳。結婚5年後の2000年だった。
「私はもともと音楽が大好きで、小さな頃からピアノをしていましたが、チェンバロをずっと勉強してみたかったんです。イタリアは、バロック音楽そしてチェンバロ発祥の地。イタリアへの憧れは強かったと思います。最初は三ヶ月のつもりだったのが、最終的には3年に(笑)二人ともキャリア志向が強かったので、私の熱意を伝えると伸之さんもすぐに納得してくれました。離れるとお互いの気持ちが冷めるのではないかとか、もう会えなくなるのではないかといろいろ考えましたが、私たちは信じているものが一つなので乗り越えられると思ったんです」
その後、国際野村文化財団の奨学金を受け、見事合格。まり子さんのイタリア生活が始まった。結婚してからの「挑戦」だった。
伸之さんの方も兼ねてから希望していた、母校の都立芸術高校で美術教師として赴任。主任として仕事にやりがいを感じ、バリバリに働く毎日が続いた。
そして、休暇を利用しては、まり子さんに会いにイタリアを度々訪れるようになる。そんなある時、ひとつの「出会い」がきっかけでその後の人生が大きく左右されるのだった。

二人はクリスチャンである。
14歳で、洗礼を受けた伸之さんと、伸之さんに知り合ってから、洗礼を受けたまり子さん。イタリアは周知の通り、カトリックの国。国民の95%がクリスチャンである。
二人はプロテスタントだが、「神」という存在は同一。まり子さんがイタリアに住むようになってから、礼拝できる教会を探し、そこで出会ったのが韓国人ミラノ賛美教会だった。
イムユンサン牧師は、ミラノに日本語の教会がないことを知り、伸之さんに会うや否やいきなり「ここで宣教師としてミラノに住む日本人に宣教してみないか?」と衝撃的な一言を発したのだった。戸惑う伸行さん。
「始めは正直言って、本当にえーーと思いました(笑)東京での生活も仕事も謳歌していたし、三宿に中古マンションを購入したばかりで、自分でデザインしたりしてとても気に入ってたんです。第一、生徒の顔がすぐ目に浮かびました」
美術の教師は普通科の高校と違い、毎日、専攻学科があり、生徒と密着する時間が多い。いわば、弟子生徒に近い。その生徒たちと別れるなんて。。
「本当に悩みました。一年くらいはかかったと思います。ですが、人生の中で宣教師をしてみない?と言ってもらえるなんて二度とないだろうと思ったんです。それにイタリアの宣教師といえば、弁護士と医者の中間のような難しい国家資格。日本のように「自称」では済まされない。自分に務まるのだろうかと疑問でした」
そして、悩みに悩んだ末、複雑な気持ちいっぱいで退職届を出す。大好きな車も家もすべて売った。「生徒からは先生大丈夫なのーー?と心配されました(笑)でも本当にみんな最終的には応援してくれました。それは、宣教師という仕事だったからだと思います」
伸之さん34歳、まさに「第二の人生」の始まりだった。

イタリアは日本のように物事が進まない国である。電車のスト、遅延は当たり前。お店は時間通りに営業しないのに、昼休みはたっぷりとる。自動販売機にお金をいれればおつりは返ってこない。
そんな国で、まず最初の難関が「クエスツゥーラ」と呼ばれる警察署に滞在許可証をとりにいくことだ。早朝6時くらいからクエスツゥーラの前では長い行列を作り、署内に入っても4,5時間は待つ。書類が揃っていなければ、一言で追い返される。留学生の学生ビザでも大変なのに、伸之さんはイタリア初の日本人宣教師ビザだ。うまく進むはずがない。
「何度行っても追い返されました。そして何といってもアラブ人とか南米の人とかいろんな人がごった返していて、平気で順番を無視される。今までのキャリアとかちょっとした名誉とか何だったんだろうと、いろんな事を考えさせられました。そんな中、取得の手続きがうまくいかず、最終的には学生ビザで入国しようとしていたくらいです」
そんな時、以前より訪ねていた、イタリア教会連盟より招聘を受けることができ、ようやく取得。3ヶ月かかった。「イタリアはカトリックなので、基本的に牧師、宣教師は独身が多い。私たちは夫婦ということで困難も多かったです」と話すまり子さんの顔には、夫婦一丸となってひとつのものを達成したときの幸せな表情が浮かんでいた。

現在まり子さんは、優秀な人々が集う「ミラノ・クラシカ」という演奏団でチェンバロ奏者として活躍している。
宣教師として、音楽家としての毎日は忙しい。伸之さんも、毎週日曜の礼拝、学びの集会や様々な場所から来るお客様に会ったりと大忙しだ。
「夫婦で揃ってこっちに来て2年経ちました。もともと人と接するのが大好きなので毎日が楽しい。今は国籍を問わずに本当に様々な人と接することができ、充実した毎日です。確かに東京もエキサイティングな街だと思いますが、イタリアは文化を残して行く国。変わらない本物に日々触れることができ、新たな価値観が生まれました」
2002年の夏、二人で再出発をした時、イタリアの家々のベランダは「PACE」(パーチェ、平和の意)の旗で埋め尽くされていた。イラク戦争での反戦平和のシンボルだった。
「イタリアのものはすべて意味があります。例えばその旗でも、虹が描かれていますよね。虹というのはもともと聖書では、゛和解゛の象徴なんです。建築、美術、デザインすべてに関して意味を持つ。かっこいいからという理由だけではない、すべてが本物なんです。また、イタリアでもしばしば日本の文化に関して誤解が多い。こっちにいる日本人として、表面的ではない本当の日本も伝えていきたい。また宣教師としてこっちにいる日本人に宗教として凝り固まるのではなく、いろんな人が集まれる共有スペースをつくりたい。それが今の夢です」
「なぜか結婚してから私自信がついたんです」とまり子さんはいう。もしかしたら結婚していなかったら、海外にいく勇気がでなかったかもしれない。海外へ出るのに結婚や年齢なんて関係ない。「冒険」して本当に良かった。
伸之さんも「まり子がイタリアに留学していなかったら、この出会い、人生はなかった。本当に夫婦は二人でひとつです」そんな二人には、夫婦で乗りきってきた、これからも乗り切っていける、自信が満ち溢れていた。(文章、写真・黒水 綾乃)